開山
真教上人の甲斐遊行
1295
いったん滅びた一條家ですが、武田六郎信長が一條氏を継ぎ、その孫である一條源八時信が甲斐の守護職(『尊卑分脈』)のとき、時宗祖一遍聖人の弟子であって、遊行2代を継がれた真教上人が甲斐の国一帯を、永仁3年(1295)に留錫、遊行されたのです。時信の促しにより、舎弟の宗信(貞和5年=1349没)は時衆の教団に入り、以後14年間、遊行廻国を続け、正和元年(1312)に、兄・時信を開基として一蓮寺を開山したのです。すなわち120年を経た尼僧の寺を、このとき以来男僧寺とし、時衆教団の中の一蓮寺として発足させたのです。
このときの真教上人の遊行について『一遍上人絵詞伝』第7巻はこんな問答を書記しています。
甲斐国一條のなにがしとかや云人、尋申て云、もと二百数珠にて侍し時は、時剋はみしかく、数はおほく、此百八にてハ、時剋はひさしく、数ハすくなく侍り。本の数遍のことく侍へき歟(か・や)。数ハ少くとも、時分は久しきにつき侍へきか、と申しけるに、数遍ハ数遍の為にあらす、相続のため、相続ハ相続の為にあらず、臨終一念の為、臨終一念ハ臨終一念の為に非す、往生の為、臨終一念の往生ハ南無阿弥陀仏分かりやすく申すならば、一條氏(時信)が真教上人に「二百の数の珠数で念仏する場合、百八の珠数で念仏するより時間が短かくてたくさんできるが……」という問いに答えて、「数は数のためでなくて、念々相続するためのものである。そして念々相続は臨終の一念のためである。更に臨終の一念は往生のためである。すなわち、臨終一念の往生は念々相続による一念であって、それは、とりもなおさず南無阿弥陀仏と称えることである」と答えたことが載っております。 この問答は、教えの上からみれば非常に大切な拠りどころを示しています。