一蓮寺の歴史

端緒

忠頼誅殺

1184

 当山の歴史を語るには、一條次郎忠頼一條次郎忠頼の誅殺から始めなければなりません。元暦元年6月16日(1184)源頼朝に呼び出された忠頼は、「威勢を振うの余り、世を濫すの志を挿むの由、其の聞え有り、武衛(ぶえい)又察せしめ給う」(『吾妻鏡』)との事由により誅殺されました。源氏の挙兵が1180年、平家、壇ノ浦での滅亡が1185年。治承・寿永の乱真っ只中のことでした。
 当時、一條家の居館が、現在の舞鶴城公園(一條小山)一帯にありましたが、棟梁の殺害は、一族に想像を絶する苦脳と困惑をまねいたと思われます。しかし、その前年、忠頼の父・信義が甲斐蟄居(ちっきょ)させられたこと、その時、甲斐源氏の勢力は西国にあったことなどを考え、夫人(俗名、法名とも、未だ不詳)の制止と、一族の自重によって、事件は拡大しなかったと想像されます。
 夫人は主人の死を悼み、その霊を慰めんとして居館を仏堂とし、自らも剃髪して慰霊三昧の生涯を送られたといわれております。その仏堂こそ、後の一蓮寺創建の端緒なのです。以来、130年弱、一定の宗門に属することなく、その発祥のいわれに従って、尼寺として存続しました(尼寺の詳細は不明)。
開山

真教上人の甲斐遊行

1295

 いったん滅びた一條家ですが、武田六郎信長が一條氏を継ぎ、その孫である一條源八時信が甲斐の守護職(『尊卑分脈』)のとき、時宗祖一遍聖人の弟子であって、遊行2代を継がれた真教上人が甲斐の国一帯を、永仁3年(1295)に留錫、遊行されたのです。
 時信の促しにより、舎弟の宗信(貞和5年=1349没)は時衆の教団に入り、以後14年間、遊行廻国を続け、正和元年(1312)に、兄・時信を開基として一蓮寺を開山したのです。すなわち120年を経た尼僧の寺を、このとき以来男僧寺とし、時衆教団の中の一蓮寺として発足させたのです。

 このときの真教上人の遊行について『一遍上人絵詞伝』第7巻はこんな問答を書記しています。
甲斐国一條のなにがしとかや云人、尋申て云、もと二百数珠にて侍し時は、時剋はみしかく、数はおほく、此百八にてハ、時剋はひさしく、数ハすくなく侍り。本の数遍のことく侍へき歟(か・や)。数ハ少くとも、時分は久しきにつき侍へきか、と申しけるに、数遍ハ数遍の為にあらす、相続のため、相続ハ相続の為にあらず、臨終一念の為、臨終一念ハ臨終一念の為に非す、往生の為、臨終一念の往生ハ南無阿弥陀仏
 分かりやすく申すならば、一條氏(時信)が真教上人に「二百の数の珠数で念仏する場合、百八の珠数で念仏するより時間が短かくてたくさんできるが……」という問いに答えて、「数は数のためでなくて、念々相続するためのものである。そして念々相続は臨終の一念のためである。更に臨終の一念は往生のためである。すなわち、臨終一念の往生は念々相続による一念であって、それは、とりもなおさず南無阿弥陀仏と称えることである」と答えたことが載っております。 この問答は、教えの上からみれば非常に大切な拠りどころを示しています。
歴史

日本の歴史(平安後期~南北朝)

1167

平清盛、太政大臣となる

1175

法然上人、浄土宗を起こす

1184

一条忠頼、誅せらる

1192

源頼朝、鎌倉幕府を開く

1224

親鸞上人の浄土真宗起こる

1253

日蓮上人、法華宗を起こす

1276

一遍上人時宗を開く

1289

一遍上人遷化

1333

鎌倉幕府滅亡

1392

南北朝統一
中興

日本の歴史(安土桃山)

1519

武田信虎、躑躅崎を居館とする 当山13代全立上人

1541

武田晴信が国主になる 当山14代徳屯上人

1573

室町幕府が倒れる
晴信、病歿 当山16代法阿上人

1582

本能寺の変
織田信長により新府城がおち、武田氏滅亡

1583

平岩親吉、甲府城代。一条小山(現在の舞鶴公園)に築城を開始

1590

豊臣秀吉が全国を統一

1600

関が原の戦い

1603

徳川家康、江戸幕府を開く
中興

武田氏滅亡と遷寺

1582

 天正10年(1582)の武田氏の破局となります。天正11(1583)築城が開始され、天正19(1591)加藤光泰、領主となり、引き続き築城をすすめ、2年の後、浅野長政により完成したのです。

 この辺の消息を法蔵院文書は次のように述べています。
文禄二葵己年浅野弾正大弼殿入部新規二当御城御縄張、是迄一蓮寺ト申寺地二御座候処替地被¬二仰付¬一、跡清目之御祈願並地鎮祭行事被¬二仰付¬一修行仕候事(以下略)
中興

遷寺前の一蓮寺

1583-1593

 天正11年(1583)甲府城の築城にかかり、文禄2年(1593)に完成したことになります。その間10ヵ年、当山の世代では17代上人の時代です。当山過去帳によれば18代上人の世代中に現太田町に遷寺が完了したように誌されておりますので、おそらく、17代上人から18代上人へ受け継がれた大事業であったと見ることができます。
 遷寺前、当時の寺域を確定することは、現在のところできませんが、一条小山、すなわち現甲府城跡を中心に、山梨県庁から甲府駅に至る一帯を占めていたと察せられます。ここには一蓮寺の本堂・客殿・庫裡等があったほか、多数の子院、すなわち塔頭が立ち並び壮観を呈していました。近時、山梨県埋蔵文化財センターによって実施された県史跡甲府城跡の発掘調査においても、調査区域の西側を中心に戦国期の五輪塔や宝篋印塔などが石垣内部から大量に出土しています。出土地点は松陰門(本丸北西)・天守曲輪(本丸南)・鍛冶曲輪門(鍛冶曲輪西端)の三か所で、鍛冶曲輪門の石垣内での発見例が最も多く、これらが一蓮寺及びその塔頭のものであることはほぼ確実で、寺域が一条小山から西側にも広がっていたことが推定されます。
 『一蓮寺過去帳』にはこの寺の塔頭と思われる院号・庵号・軒号をもった寺の名がしばしば登場します。一度限りのものもありますが、二度以上現れるものも多々あります。出現頻数の多いもの若干を拾うと、法王院・般舟院・東光院・春明庵・宝樹庵・献陽庵・願称庵・玉樹庵・桂陰庵・海蔵庵・以鏡軒などが挙げられますが、以下に列挙してみます。

塔頭:定真庵、福生院、清冷院、梅柳庵、殊玄庵、玉樹院、願生庵、東光院、慶寿庵、幸福院、浮慶庵、顕揚院、海蔵庵、玄竜院、慶生庵、医王院、春明庵、法王院、以雲庵、東陽軒の20の坊
末寺:玉伝寺、神竜寺、円福寺、花台寺、三光寺、珠宝寺、願行寺、応声寺、玉泉寺、等生院、般舟院、西住寺、尼方寺、桂蔭庵等

 これらは時代の移り変わりと共に、2・3を残して、大部分は廃寺となって現在におよんでおります。
江戸

日本の歴史(江戸)

1603

江戸幕府を開く。徳川家康征夷大将軍

1639

鎖国

1681

5代将軍 綱吉

1704

柳沢吉保が甲府城主となる
江戸

甲府城主・柳沢吉保

1709

 柳沢吉保の甲府城主時代がちょうど、30代転真上人の世代です。
 柳沢家は、元来当山の開基一条甲斐守時信の後裔といわれ、その8代の孫、弥十郎信興が柳沢姓を名のったものであって、いわゆる武川衆と称せられる一族です。このいわれから、代々当山を菩提所となし、吉保また帰依厚く、家宝をあげて寄進し、当山もまた同家の霊屋、尊牌に対し香華供養をしてきたといわれております。
 宝永六年(1709)将軍綱吉薨じ、剃髪して保山と号しました。ちなみに現存する立像阿弥陀如来像は保山の持仏と称されております(県重文・柳沢吉保像)。柳沢吉保から同吉里の城主時代を経ていわゆる勤番時代(1724・享保九年)となるわけです。当山の世代では大体35代上人以降となります。
近代・現代

王政復古と神仏分離

1868

 明治元年(1868)神仏分離となり、各地で寺院や仏像がこわされ、長い間の神仏を同一視していた時代に終止符が打たれたのであります。いわゆる封建社会が崩れ、近代社会への発展の基礎の時代です。身分秩序の撤廃が行われ、僧侶も氏を称し、肉食妻帯を許されたのが明治3年(1870)から明治9年(1878)のころです。
 明治4年(1871)と明治8年(1875)、それまで許されていた寺社領もこの2回の上知令により没収されました。いずれにせよ、江戸時代の平穏さから近代化への大きな波浪が、急激に全国の寺院を揺ぶりはじめた時代です。寺有地の上地処分も明治はじめに行われ、当山としては境内地であった現太田町公園を県に接収されました。明治10年5月7日から14日まで当山本堂において第一回県議会が開催され、一蓮寺県会、明治十年県会などといわれます(百周年を記念して昭和52年に記念碑が建立されました)。
 当山としては、いよいよ遊行上人候補地としての性格を明確にしていった時代と申せますが、同時に、ますます住職が常住することのできない寺となっていったことを意味しております。遊行上人の交替がはげしいことと、遊行上人の遊行中の藤沢の院代のつとめは、住職を永く当山に止めておくことができなかったのです。社会全般が近代化され、人心が進み、当山の維持がますます檀徒の経済力に直接に響くことになりますと、この体制はいろいろな問題をはらんでいたのです。
近代・現代

第二次大戦及び甲府空襲

1945

 7月6日、夜半からの米軍の爆撃により、全山焼失します。70代察玄上人も負傷せられ、破傷風となり7月14日ついに遷化されました。
近代・現代

戦後の復興

1945

12月20日 時の宗務長、群馬譲原満福寺住職河野悦然上人、戦事非常措置として推選委員会の決定にもとづき、当山71世法灯相続者に任命される

1947

1月20日 悦然上人入山、戦災までの宏麗を誇った当山は、ただ瓦礫の山、一木一草も過日の面影を止めるものなく、わずかに墓所がその面影を止めるばかりだった
12月 墓所入口北側へ南面して仮堂を建立、ようやくにして雨露をしのぐ一堂の建立をみた

1951

7月20日 本堂庫裡の落慶式及び察玄上人追善法要、悦然上人入山式を挙行

1952

3月2日 悦然山主は病のため当山にて入寂。61歳
近代・現代

近年の復興

1969

6月 黒門、本堂内陣落慶式

1976

9月 一遍聖人像建立

1977

12月 鐘楼堂改築完成

1984

5月 新本堂完成落慶法要

1994

宝物館完成。「遊故館」とする