端緒
忠頼誅殺
1184
当山の歴史を語るには、一条次郎忠頼の誅殺から始めなければなりません。元暦元年6月16日(1184)鎌倉幕府(源頼朝)に呼び出された忠頼は、「世を濫らんとの志」(『吾妻鏡』)在りとの事由により誅殺されました。源氏の挙兵が1180年ですので、それから4年の後のできごとです。当時、一条家の居館が、現在の舞鶴公園一帯にありましたが、棟梁の殺害は、一族に想像を絶する苦脳と困惑をまねいたと思われます。しかし、夫人(俗名、法名とも、未だ不詳)の制止と、一族の自重によって、おそらく事件を拡大しなかったのであろうと想像されます。歴史は、その後の甲斐源氏の動きを示すものが格別ないからです。
夫人は主人の死を悼み、その霊を慰めんとして居館を仏堂とし、自らも剃髪して慰霊三昧の生涯を送られたといわれております。その仏堂こそ、後の一蓮寺創建の端緒なのです。以来、130年弱、一定の宗門に属することなく、その発祥のいわれに従って、尼寺として存続しました(尼寺の詳細は不明)。