江戸
甲府城主・柳沢吉保
1709
柳沢吉保の甲府城主時代がちょうど、30代転真上人の世代です。柳沢家は、元来当山の開基一条甲斐守時信の後裔といわれ、その8代の孫、弥十郎信興が柳沢姓を名のったものであって、いわゆる武川衆と称せられる一族です。このいわれから、代々当山を菩提所となし、吉保また帰依厚く、家宝をあげて寄進し、当山もまた同家の霊屋、尊牌に対し香華供養をしてきたといわれております。
宝永六年(1709)将軍綱吉薨じ、剃髪して保山と号しました。ちなみに現存する立像阿弥陀如来像は保山の持仏と称されております(県重文・柳沢吉保像)。柳沢吉保から同吉里の城主時代を経ていわゆる勤番時代(1724・享保九年)となるわけです。当山の世代では大体35代上人以降となります。